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心掛けてきたこと

 最終更新日 2010年 4月30日
作成日 2008年 4月 1日

 新規就農はまだ緒に就いたところです。これから先色々なことが起こるでしょう。でも、それを気にしてもしょうがありません。ここでは、農に係る生活をしていこうと決めてから今日まで、心掛けてきたことを整理しておきます。大したことではないのですが。

計画を立てる。(計画8分、それでもわからないのでまた立て直す。)

 先の見通しが立たないと気持ちがすっきりとしない性分のようです。若い時はどうであったか忘れてしまいましたが、ある時からでしょうか、計画を立てるようになりました。

 会社勤めですと、仕事は品質、納期そしてコストを意識した活動がほとんどです。この先どうなるかわからないでとにかくやるあるいは、言われたとおりにやる、というやり方もあります。こういっても、両社のやり方にどれだけの違いがあるのかは、同じ言葉を使っても人によって、これでは計画を立てたことにはならないよということになるかもわかりません。物事にはどうも両面があるようですから。

 とは言いながらも、自分なりに成算を立てるというか、見通しが立てられないと着手するのがためらわれます。まず計画、段取り、そして実作業という流れを繰り返すということです。

 農に係る生活をしようという時に、何から始めていいのか皆目見当がつきませんでした。本屋さんに行って様々な方が書かれた本を読んでもピンときません。ある方はそれでやっていったのでしょうし、またある方は机の上のことだけということもあるでしょう。やはり、自分の計画は自分で納得のいく計画が必要だという当たり前のところに行きつきました。

 農業の概要理解、日本および世界の農業の現状、新規就農の動向、技術の習得、農業経営計画、作付計画、そして生活設計。それでも、中身は変わっても、会社員生活で培った仕事のやり方が多いに役立ちました。

 もちろん、これで十分という計画は立てられるはずがありません。それでも、何がわからない、何が課題だということが少し見えてきます。この感覚がとても大切だとわかったのがこの年ではありますが、遅きに失するということはありません、わかったときがそうする時です。

 夜久野に来てからも、計画どおりにことは運びません。農業機械は勿論、農具も資材もありません。どんなものを揃えよう、予算はこれくらいと決めてはいても、どこで調達したらいいかがわかりません。でも、次の計画は立てられます。調達先にはどんなところがあるか、何を調べたらそれがわかるか、あるいは、どなたにお聞きしたらいいか、どなたとどなたにお聞きしようか、おっしゃることが違った場合はどうしようか、等々。

 計画は、立てれば立てるほど実現の可能性が高くなると思っています。ただ、計画を立てるのにはそれなりの時間がかかるということです。計画8分ではありますが、どの時点で実施に移るかは、その時々でしょうか。

迷ったらやる。(考える=実行する)

 考えるということは実行することだということに気がつきだしたのも、農に係わろうと考えだしてからです。

 考えているだけで何もしないのでは意味がない、というのとは少し違うようです。考えるということと実行するということが表裏とでもいうのでしょうか。考えることによってよりよい実行が可能になる。実行することによってよりよい考えが浮かんでくる、というのでしょうか。とにかく、考えるということは実行することだと思うようになったのです。

 やりながら、走りながら考えるというのも同じことなのかもわかりません。ただ、考えるということは実行することだ、というのがピンと来るようなのです。ジョギングをする時に、腕の振りや足の運び、腰の使い方、背筋の立て方等をどうしたらいいだろうと考えながらやる、そして、ちょっと違うな、こうしたらどうだろうと少し修正してみる。こんな感じなのでしょうか。残念ながら、夜久野に来てからジョギングはお預けです。月に100kmほどでしたが、とても楽しい時間でしたし、身体はしんどくて悲鳴を上げているけれども、気持ちがしんどいと思うのはまた別であるということも学びました。もちろん、農業を目指すにあたって、ジョギングをしていてよかったと思いますし、していたからこそ今があるというように思います。ジョギングのことは、あた改めて。

 迷ったらやる。迷ったら考える、考えながらやる、ということは、どちらか一方をやるということではなく、表裏一体のように考えながらやるということです。迷っているだけでは変わりません。進歩とは言いません、変わることが大切なように気がします。変わることによってよりよく生活していく、生きていくというのでしょうか。

 このことは、計画を立てるということと相反するようにも思われますが、このように理解したいと考えています。計画を立てるということも考えることであり実行することであると。考えて書くことによって、ぼんやりとした、こうであればなという願望のようなものが、計画として具体的な、実現の可能性を帯びてくるものになっていくということは、考えようによっては考える=実行するの典型とも言えます。そして、計画を速やかに実行してみる、計画との乖離が見えるので修正していく。計画修正の時期も年度ごとのもの、季節ごとのもの、作付ごとのものとあるでしょう。こんな風に過ごしていくと、一日があっという間に過ぎていきます。

 迷って当たり前、その時どうすると、自分に言い聞かせています。

すべてが自分の責任である。(=自由)

 農業に係る生活をしていこうと決めてから、変なストレスがなくなってきたように思います。

 会社員時代も、かなりいい環境で仕事をさせてもらっていたと思います。特に、一緒に仕事をさせていただいた方々は、素晴らしい人たちでした。感謝しています。ただ、それでも、会社という組織の中ですから、自分の考えが通らない時、上からの指示で仕方なくやる時、そして人事の季節にはストレスがあったと思います。

 それが、なくなってきたようです。いろいろな方のご支援を受けながら、言い換えれば、多くの方々とのつながりのなかで相変わらずやっているのですから、状況はそう変わらないはずなのですが、自分の考え方が変わったのでしょうか。すべてが自分の責任と思えるようになりました。色々とご支援ご指導をいただきながらも、その結果が仮に期待どおりでなくても、すべて自分の責任だということです。言い換えると、自由だということです。有難いことに、周囲の方々がいい距離を保ちながら、暖かく見守っていただけているということでしょうか、自分が初めてそういうことに気がついたということでしょうか、吹っ切れた感じというのでしょうか。

 そのかわり、恥はかき放題です。わからないことだらけで、いろいろな方に詰まらないことを質問し、教えを請い、そして自分の思うようにやり、自分で責任を取るということが少しできるようになったということです。これは、会社員時代でもやろうと思えばできたことなのでしょう。言い訳がしやすい環境だったのかもわかりません。言い訳と言えば、今は、年金、食品、物価、高齢化、医療、農業、過疎、環境と問題、課題が山積みです。それを政治の責任、公務員の責任として追及することは自由です。ただ、本当の意味での評論をするのでなく、よくない意味での評論家では、もったいない気がします。それらについて本当の意味の評論に耳を傾け、本質を理解し、自分が何をするかが大切だと思います。そうしないと、せっかくの今がもったいないと思います。

 本質を知るというのは、年齢には関係ないようです。若い方でも10代で見える人いるようですし、高齢になってもしがらみできゅうきゅうとしておられる方もいるのでしょう。難しいのでしょうが、考え方一つでものの見え方が変わってくるというのは、不思議でおもしろいものです。生まれてきたかいがあります。

 このことは、自分が心掛けてきとというよりも、何故かわからないけれどもそう考えるようになった、とご理解ください。本当に不思議です。

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